鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

怒ることに慣れていない

どう怒ったらいいのか。

日々小さな苛立ちはありました。

今もあるのでしょうが、鬱の靄の中でまさに雲散霧消状態。

 

喜怒哀楽の感情を感じることも出来なくなって来ています。

そもそもが感情に起伏の少ないスキゾイド型人間です。

鬱でありながら悲哀を直に感じないのはいいことなのか、そうでないのか。

 

それでも怒ったという記憶がないこともありません。

うつ病だという大学の図書館長に嫌味を言ったり、嫌がらせをし続けている同僚職員に対して怒りました。

どうにも我慢できないことがあり。

 

それはまたいつか話をするとして、今回は前回、前々回に引き続いて出てきたTさんについてです。

また、です。

なんだかんだで彼とは関わった深度が深いだけ愛憎半ばしています。

 

怒ることがこの回のテーマですが、Tさんに対しては怒ったことがありません。

思い返してみれば、その寸前までいったのだな、と気が付いただけで。

それでも未だに気持ちを整理できずにいるので、書いてみようと思います。

 

学生時代、今では信じられないですがよく京都へ旅行に行っていました。

確か三年連続で行ったと思います。

一人で。

 

それで、最後に行った時、とあるお寺の庭に歌碑が立っているのを見付けました。

嵯峨嵐山のどこかのはずなのですが、どうしても思い出せません。

古典を専攻していたのでその句の意味は掴めます。気に入ったので手帳に書き付けました。

 

一人旅から帰った後、バイトへ行く時にお土産も持っていきました。

京都と言えば生八つ橋。

一応気の利いたこともできないではありません。

 

その日の仕事が終わってから、Tさんが京都の土産話を聴きたいとファミレスへ誘います。

同じシフトに入っていた女子大生も同じく。

Tさんとその女子大生、それから自分の三人でよく飲食していました。

 

それで、自分が歌碑のことを話した時、Tさんがそのメモを見せて欲しいと言います。

そして見せた時、彼は何を考えたのか、おもむろに自分の鞄から消しゴムを取り出し、それを消し始めたのです。

何をしているのか判然とせず、いや、わかってはいても理解が出来ず、三分の一ほどを消されました。

 

どうにも、彼の行動の意味が分かりません。

そこで、今では思うのですが、怒ってよかったのかな、と。

同席していた女子大生も顔が引き攣っていましたし。

 

ただ、それまでの人生で人に対して怒りをぶつけたことが殆どなく、どうそれを表せばいいのかわからない自分は、「何してんの?」とメモ帳を取り返すだけしかできませんでした。

それが未だに心の整理が出来ずにいることです。

Tさんの行動の意味がわかりません。

 

ただ、そこで自分が怒らなかったことで、彼は同じようなシチュエーションに立った時、また同じことをするのでは?と考えます。

とすると、その時はきっと彼も怒られるでしょう。

世の中寛容な人ばかりではないのですから。

 

自分が寛容だとは言いません。

ただ、喜怒哀楽に乏しいばかりに怒りに対しても不感症になっていただけなのですから。

人間、怒る時には怒らなければいけない。

 

そう思った次第。

それが時には人の役に立つかもしれません。

と言いながら、Tさんが同じことを繰り返して怒られたら、ざまーみろと思いますが。