軌跡~ある教員サークルの興亡~142
はじめはチェーンを付けたまま、ドアを開けてその隙間を通して話をしていたのですが、桃野さんの声が大きく、他の部屋や近所の迷惑になると考えた片瀬さんは、彼を部屋に入れてしまったのでした。
でも、片瀬さんだって無防備ではありません。
土屋君に連絡し、状況を伝え、彼を呼んだことを桃野さんに伝えています。
更に、目に入ると失明する危険もあるカビキラーをすぐ手の届く位置に置いたという。
それでも危険は気はします。
普段の聡明な片瀬さんなら、酔った男を部屋に入れるとの判断はしないのではないか。
もしかしたら、別の人格が表に出ていたのではないかとも考えられます。
部屋に入った桃野さんは、いきなり襲い掛かることもなく、何か飲み物を、とお酒を所望したと言います。
こうなったら酔い潰してしまおうと、片瀬さんはウイスキーとグラスだけを彼に渡したそう。
水は無しです。
やがて土屋君がタクシーに乗ってやってきた時には、桃野さんは部屋にあるベッドで昏睡していたとのこと。
その件があってから、土屋君と桃野さんは絶縁状態になりました。
恐らくは、今度こそ土屋君も桃野さんに何か言ったと思われます。
自分と土屋君が文学部の研究棟で話している時に桃野さんと偶々顔を合わせても、彼ら双方は挨拶をしません。
自分一人だけなら、桃野さんは「おう」と一言くらいは掛けてくるのにです。
「桃野さんて全身アトピーだろ。寝ながら頭を掻いて吹出物のかさぶたを破ったみたいで、あの夜香奈の枕カバーに何か所も血が付いていたって。香奈はそれを泣きながら洗ったんだ」
そのように、言う必要のないことを自分に言うこと自体、土屋君が桃野さんに対して怒っている証拠です。
当時は顔中にニキビがあった自分も、枕カバーに血が付いていることが多々あり、「そうなんだ」と気のない返事しか出来ませんでしたが。
冬休みが明けると、教員サークルは完全に無いものとなっていました。
興味本位で待ち合わせ場所を遠くから見に行ったことが三回ほどありましたが、メンバーは一人も来なくなっています。
教員サークルの完全な亡びです。
入った時は、どうしてこんなに役に立つ活動が正式なサークルとして認められないのかと不思議に思っていました。
真面目に活動し、他の人がそれを多く知るようになれば自ずと参加者も増えて大きく育っていくものと信じていました。
少ないながらも、いつかは先輩たちのようになりたいとの尊敬の念や気概も持っていました。
そう思ったのは自分だけではないでしょう。
学科外で模擬授業を行い、その出来について自由に議論する。
悪くありません。まったくもって悪い点は見えません。
欠点にならない欠点を強いて挙げるとすれば、以前書いたように真面目過ぎたことです。
あとは、教職に就かない人にとっては活動にあまり意味がないこと。
もっともそういった人は、そもそも教員サークルに参加しようとしないでしょうけれど。