鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

いじめられる方が悪い?

いじめについて、いじめられる方に原因があるという説には絶対的に反対なのだけど。

ふと思い出したことがある。

 

高校一年の秋。生物の授業の時。

十月なのに、いきなりセミが一匹鳴きだしたことで、時期すらもはっきり覚えてる。

特にその日が暑かったからでもないのに、なぜ、と思っていた。

 

そんな時に、何だか椅子が前にずれていくのを感じた。

自分の座り方が悪いのかと思って、座り直そうと椅子をちょっと浮かせた時、それは一気に前に動いた。

そのため、机と椅子とに胴が挟まれることに。

 

なんだろう、と思って椅子の脚を見ると、後ろの席の生徒がそれを足で押していた。

理数科目は能力順のクラスで行われるため、いつもホームルームで顔を合わせるクラスメートとは別の生徒とも一緒になる。

後ろの席の彼とは、一度も話したことがなかった。

学校内で見たことはあったけれど、別段何の関わりもなく、赤の他人のはず。

 

それなのに、彼はまだ椅子を押してくる。

こちらが抵抗して踏ん張っても、なおずっとやめない。

踏ん張るより、押す方が力が少なくて済み、徐々に机と椅子の隙間は狭まり、胴がきつくなっていく。

机を前にずらせばいいのだけれど、そうすると前方の生徒に迷惑が掛かるためにできずにおり。

 

結局後ろの彼が押すのに飽きるまで、地味に抵抗するしかなかった。

授業なんて聞いていられず。

 

いじめ、なんだと思う。

でも、ほぼ初対面の人から受けたこの仕打ち。

 

いじめられるこちらが悪いのか、いじめるあちらが悪いのか。

真剣に考えさせられた。

ずっと後のことだけれど。

 

何もしてないのに、椅子を押して体を机に挟ませるなんて、普通の人は考えるだろうかと。

自分は生きているだけ、存在しているだけで、こうして虐げられ続けるのかと。

 

とても鬱になる思い出として、はっきり覚えている。

もしかしたら、いじめられる自分に、そういう空気がまとわりついているんじゃないか。

その疑惑が拭えずにいる。

老人ホームという職場でも、かなりきついいじめにあったのだし。

 

 

異端者の果て

思えば、小学生の時にクラスにオカマが二人いた。

中学生の時にはホモが一人。

 

そういうのが当たり前だと思っていたから、その後の人生で特殊性愛者を見ても、「ああ、そうなんだ」としか思わない。

これでもし、過去にオカマもホモも身近にいなかったら、もしかしたら嫌悪感を抱いたのかもしれない。

嫌悪までいかなくても、避けていたかも。

 

そういう意味で、って、どういう意味かわからないけど、子供の頃の出会いっていうのは大切だと思った。

でも、子供に社会科か道徳かの授業で、同性愛、両性愛について教えるのは、やっぱり違うと思う。

教えなくとも、今の社会って、特殊性愛者が声高に叫ぶほど閉鎖的ではない。

むしろ寛容だと思う。

そういう人を見付けて、排斥するような人ってまずいない気がするから。

排斥するな!差別するな!って、主張すればするほど、それはノーマルな人にとっての脅しになって、逆差別が生まれる危険性もあると思うし。

 

それはともかく、性愛的にはノーマルの自分の方がいじめられていたという事実があるわけで。

 

でも、いい人ぶるわけではないけれど、そのオカマ君やホモ君がいじめられるくらいなら、自分がいじめを引き受けてよかったという思いはある。

彼らが、その特殊性ゆえに虐げられていたとしたら、それは見るに堪えなかったと思う。

 

そんなこんなを考えると、自分は性愛的異端者よりももっと果てにいたんだな、と。

 

きつい。