鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

毛むくじゃら:コンプレックス列記

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もっちゃんの机の下に伸びる足はすべすべしていて陶器のようだった。

振り返って自分の太ももを見下ろすと、ホワホワした黒い毛が生え揃っている。

 

小学五年の頃の記憶。

ずっとコンプレックスだった毛深さです。

隠そうにも、制服が半ズボンなのでいつもむき出しの毛むくじゃらの足を晒したまま。

 

思えば冬でも半ズボンを履かされていました。

いくら子供は風の子だとは言え、厳しいものがあったのではないか、そう思います。

時代が変わったのだから、制服も変わったのかとネットで調べてみました。

が、変わってない。多少のデザインの変化はありますが、夏はもちろん冬も半ズボンのよう。

 

とはいえ、寒かったものの耐えがたかった記憶はありません。

本当に子供は寒さに強いのかもしれない。

よく走り回っていたからかもしれません。

 

今でも冬は好きです。

寒がりだけれど、寒さが好きという。

人間嫌いの寂しがり屋みたいなものです。

 

話を戻しましょう。

体毛についてです。

全体的に濃いのです。子供の頃から。

 

それこそ毛むくじゃら。

と、ここで疑問。

毛むくじゃらってなんだろう、と。

 

新明解国語辞典によれば、「濃い毛が密生していて、気味が悪く感じられる様子」だという。

気味が悪く……言い過ぎでしょう……。

毛むくじゃらの「むく」は「むく毛」に由来するそう。「(けだものの)密生している毛」とのこと。

けだもの……これも言い過ぎでしょう……。

 

誰が言っているって、自分が自分に言っているので傷付く理由もないのですが、やっぱり傷付きます。

毛むくじゃらだなぁ、って思い続けてきましたから。

 

小学校の頃から目立たなかった自分です。

何かで一番になった記憶はないような。

それなのに、人知れず一番になってしまっていること。

それが毛むくじゃら。

クラスで、いや、学年で一番毛が濃かった。

 

隠したいけれど、半ズボンだとそうもいきません。

いつばれるか、いつばれるかとびくびくしながら過ごす毎日。

大人ならば気遣いが働き、コンプレックスになるであろうことは直接に指摘することはないでしょう。

いや、あるかもしれませんが、子供ほど無邪気で気軽に言うことはないはず。

大人がコンプレックスを声高に指摘するのは、おそらく悪意がある時。

子供はその悪意がないぶん残酷です。

 

すべすべした隣の席のもっちゃんがこちらの太ももを見て言いました。

「毛深いね」と。

心臓に巨大な矢が刺さったイメージです。

グサリ、という擬音が自分の胸の内に響き渡りました。

 

ですが、そこでうろたえては更に馬鹿にされるのが小学生という生物。

だから自分は「そそそ、そうかな?」ととぼけました。どもりまくりながら。

残酷ではありながら、気が散りやすいのも子供の特徴。

もっちゃんは「うん、ちょっとね」と言っただけで、その後こちらの毛むくじゃらを言い立てることはありませんでした。

 

けれど、幼心にそういった経験は重く、自分だけがコンプレックスだと考えているのだったらいいのに、と思っていたことを他者から指し示されるとその衝撃はより大きく感じられます。

中学に上がり、制服が長ズボンになった時にどれだけ安心したことか。

 

高校の時に水泳の授業がありましたが、全サボりです。

色々理由はあり、中にはいじめも、いじられも、からかいもあったのですが、同時に毛深さを人に見せたくないというのもそれらに近い比重でありました。

成長するにつれ、体毛はより長く、より濃くなってきていましたし。

 

大学に上がった頃から、せめて腕の毛はどうにかしようと日々剃り始めました。

それは今も続いています。

もし剃らなければどんな毛むくじゃら状態になるのか思い出せません。

それくらい長い間剃り続けてきましたから。

 

なんで毛深い人とそうでない人が出来るのか。

毛深い人がどれだけのハンデを背負っているのか。

神様も罪づくりです。

そういったもろもろのコンプレックスも精神を病む一因になっている気がします。

といって、誰も恨む気力もありません。

諦観の境地です。