価値を置く場所(前編)
自分にとって大切なもの、大事なもの、自身の柱となるもの。
いざ考えてみると、これだ、と特定できるものはなく。
自分が価値あるものと認めているのは、物質世界にはない、ような気がします。
何が欲しいという物はなく、何がしたいかということも、特にありません。
それが自分に特有のものなのか、シゾイド全般がそうなのか。
それは属している世界の小さな自分には測りかねます。
ですから、ここでは自分だけを例に挙げて考えてみます。
価値があると見做しているのは、物質世界にはない、そう書きました。
じゃあどこにあるか。
精神世界です。
精神世界に何があるのか、何に価値を置いているのか。
特別なものではありません。
優しさとか、信頼とか、誠実さとか、要はこの世で「いい人」が持ち合わせている特質です。
そういったものを持っていれば、または持とうとしていれば、それだけで人生満足か満足に至れると信じています。
一方でそう考えない人のグループもあることを思い知りました。
うつ病になり、これまでの半生を振り返ることで痛いほどに。
優しさを捨てても、信頼を砕いても、誠実さを裏切ってもお金を欲しいとする人がいると。
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今では考えられないのですが、自分は車を運転して職場へ通っていました。
数々の図書館を転々としてきて、それらへは電車や自転車で通勤していたのですが、老人ホームに就職した時だけは車です。
交通の便がそれほど良くないので、電車を使うと片道だけで二時間を超えかねないところだったので、思い切って車を買うことにしたのでした。
車……、正直なんでもよかった。
軽自動車の安いので十分だと。
ダイハツのミラジーノ、ミライース、ミラなんとか、そういった見た目が洒落ていて(洒落ていますよね?)、小回りが利くものがいいな、と思っていました。
が、その時の上司から鼻で笑われ、セダンを買うように促されました。
促しというか、半ば強制だった気もしますが。
その方は特に車へのこだわりが強く、趣味は車、と断言できるほどのめり込んでいました。
正直、車やバイクにこだわりを持つ人というのが理解できないのですが、これもまたシゾイドのせいかもしれません。
ともあれ、有名メーカーのそれほど安くないセダンを買い、通勤を始めました。
車に凝る人が分からないとは言いますが、車で走っていると楽しいのは分かる気がします。
ある一時期まででしたが。
こともあろうに居眠り運転をしたりしました。
多分、その頃には精神がビヨンビヨンになって鬱の兆しが差している時期だったと思います。
場所は、片方が崖という危ないところ。
なんでそんなところで居眠りするまでに気を抜いたのか、今でも信じられません。
考えられるとしたら、そこいらがくねくねと曲がる道だったので、揺れが母親の胎内、羊水の中で過ごした時期を思い起こさせ、精神が安らいでしまったせいなのかと。
うつ病でズタズタになった精神を、無意識という意識がとにかく休ませようとしたのかと推測します。