鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

鍵の掛けられた鞄

教師からすると、いじめはどう見えているのだろう?

考えると、厄介な問題です。

いじめっ子に対して頭ごなしに「いじめはやめろ」と言っても聴くような耳を持っていないでしょう。

さらには、表面上いじめが無くなったかに見えて、実は裏で、以前よりもいやらしい方法でそれが行われるようになる可能性も大きい。

 

いじめはいけないことと頭に刻まれていても、それを止められない人というのはいます。

サド=サディスティックな人だけでなく、攻撃型行為障害という脳が崩れている人がそうです。

この障害を持った人に、「金槌で人の頭を叩く」、「ピアノを弾いている人の手の上にピアノの蓋を勢いよく下ろす」といった映像を見せる実験が行われました。

普通の人なら「痛い」、「嫌だ」と感じるでしょう。

被験者である攻撃型行為障害者も、「痛い」とは感じていました。

けれど、彼らの脳波をつぶさに観察すると、脳のある部分が活発に反応しているのが見て取れます。

それは「喜び」を感じる場所。

彼らは、「痛い」とわかりながら、それを楽しんでいるのです。

 

このようなことを勘案してみれば、いじめをやめろ、と言うだけでいじめが無くならないのは明白な事実でしょう。

執拗にいじめを繰り返す人は、攻撃型行為障害を患う病気を持っているのですから、脳の改造から始めないといけないし、それは今の学校教育では不可能に違いありません。

いじめられる側にできるのは、ただ逃げることだけです。

この場合、逃げるのは恥じゃない。当然の行動です。

動物だって危険を察知すればそこから離れようとします。

それなのに逃げられず、却って追い詰められて自殺を選んでしまう学生が多いのは、過去の先輩方が「逃げるのは恥」、「やってやれないことはない」といった根性論で逃げ場を塞いでしまうからです。

命を守るのは恥ではないし、やってやれないことは山ほどあります。

人生がダメになった自分が経験論としてそう断言します。

命を守っているとは言いがたいですが。

 

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と書いてきましたが、こんな前書きをしたものの、今回書くのはいじめについてではなく、ただのおバカな出来事です。

中学二年くらいだったか、まだ自分はそれほど暗い人生を歩んではいなかったと思います。

友達もいたような、いなかったような。

そんなある日の掃除の時間、自転車のワイヤーロックが廊下に落ちているのを見付けました。

輪っかになった鍵です。

誰かが持ってきて、落としていったのでしょう。

中学の時はなぜこんなものが?というほど色々なものが学校中に落ちていました。

ボールペンから電子辞書、エロ本(一瞬で回収される)、カビの生えたTシャツ、女性ものの下着(男子校なのに)、だから自転車の鍵なんておとなしいものです。

特に盗むという意識もないままワイヤーロックを拾って、何気なく自分の鞄と机とをロックしました。

落とし主が現れたらすぐ返せばいいのだし、そもそもそのままもらって帰ろうという気もありません。

掃除は掃除当番が行うことになっていて、確か日によって出席番号が奇数と偶数の生徒が交互に担当していたんじゃないかと。

ほうきとピンポン玉でホッケーをしたり、ただ「だりーなー」と言ってサボる人もいたりしますが、監督者の教師が見に来れば徐々に進みます。

 

終盤に近付いた時、事件は起きました。

鍵が無くなっているのです。

胸ポケットにいれていたはずなのに。

自分が机と鞄とを引っ張ったりしてガタガタ言わせていると、生徒が一人二人、集まって来ます。

そして、教師もやって来ました。

「鍵掛けられてるのか?!」

当時40歳くらいの彼が大袈裟に驚きました。いや、多分本当にびっくりしたのでしょう。

自分が誰かに鞄と机とをロックされるという深刻ないじめを受けていると勘違いして。

「おい、誰だ?!鍵持ってるやついるか?」

怒鳴るように周りに言います。

いないだろうなぁ、と自分はのんきに考えています。どこかで落としてしまったんだとわかっていましたから。

が、いたのです。

T君が「俺、鍵拾いましたよ」と、ポケットからまぎれもないそのワイヤーロックの鍵を取り出して見せたのです。

教師はそれを受け取り、自分の鞄と机とを結び付けている鍵を外しました。

やたら深刻な顔をしていて、やっと自分は自体が容易ならざることになっているのに気付きました。

T君が自分をいじめていると思い込んでいる様子です。

「おい、どうして鍵を掛けたんだ」

問い詰める教師。何が起こっているかわかっていないT君。どう言い出せばいいかわからない自分。

膠着状態は10秒ほど続きましたが、体感は5分くらいの長さです。気まずさで、時の流れを遅く感じました。

「自分が掛けたんです、自分で」

そう言ってみても、教師は信じません。いじめられっ子が、さらなるいじめを恐れていじめっ子を守る構図にピタリと当てはまっているのですから。

それでも真実は真実なのですから、根気よく説明して不承不承ながら教師を納得の「な」の字くらいまでは説得しました。

 

そこで冒頭の一文に戻るのです。

「教師からすると、いじめはどう見えているのだろう?」と。

おそらく、自分が生んだその一件がいじめの一端に見えたに違いありません。

それ以降、何かと声掛けされるようになりました。

ありがたいですが、周りからは自分を特別扱いされている風に見えます。

それだから、本当のいじめに進んでしまったのでは?と思ったりもしないではないです。