心を作る
スキゾイドの私にとって、心は自然にあるものではなく、学んで作り上げるものだった。
けれど、そうして組み上げたものがスキゾイドではない普通の人の心と同じように作用するかと言えば、そうとは言い切れない。
というのも、学んで作るその「こころ」的なものは、対症的であり、あまねく事柄すべてに適用されるのではないのだから。
だから、多少の応用が利いたとしても、まったく予期しない事柄が目の前に立ち現れた時に、それをどう処理すればいいかがわからなくなることが多かった。
そこで、間に合わせの言動をとるのだけれど、自分の興味がある分野以外のことだといかにも適当か、あるいはちぐはぐなものになってしまうことが多々あり。
スキゾイドでない人でもそういうことはあると思う。
けれど、スキゾイドの私が興味を持っている分野とそうでない分野とにおける言動の適当性の振れ幅は、普通の人のその振れ幅の数倍に及ぶ。
スキゾイドの私は好きなことならばとことんまで突き詰めていけるのに、そうでないことについては見事なほど興味を持たないのだから。
通常の人ならば好きでないことでも、上辺の体裁だけでも整えようとするのを、スキゾイドの私は放置しがちになっている。
興味もないし、好きでもないことに自身の限られた気力とエネルギーを使う無意味さに頭が支配されてしまうから。
そう書くと、自身がわがまま極まりなく、まったくの社会不適合者に見える。
そして、それは否定できない。
けれど最初に書いた通り、普通の人の言動を学び取れば大概のことには表面上だけでも対処できるようになる。
それぞれの事柄について、「こころ」的なものを作ることで対応能力が身に付けられるのだから。
よって、頑張れば「普通」に生きようとすれば出来なくもない。
日常生活のほとんどすべてについて学習していけば、やがては普通の人っぽくなれる気もする。
うつに落ち込む前に私が張り切っていたのはそれだった。
「普通」の心を持つこと。
スキゾイドという症状をまだ知らなかった時代。
皆がしゃかりきに上へ上へと言っているのは、自らと同じように心を作り上げようとしているのだと思っていた。
でも、今はわかっている。
その人たちは既に心を持っていたのだと。
彼らが一生懸命なのは、持っているその心に磨きをかけることだった。
スタート地点が違っていた。
そういったことに気付いた後、自分を不幸だと思ったかと言えば、半分はそうで、半分はそうでもない。
心を学ぶ、当たり前のことを当たり前と思わずに学び直すだけでも達成感はあったから。
負け惜しみかもしれない。
でも、私はそれを楽しんでいたように思う。
ただ、気力が衰えている今は、そういった学び直しは負担でしかない。
精神的に摩耗していて、動けないでいる。