軌跡~ある教員サークルの興亡~26
絶対に断られるシチュエーションで敢えて誘う。
そこには自身のどす黒い思いが、無意識的に働いていました。
一年に一回だけ会っていて、仲が進展するべくもなく。
それでいながらもどかしさは感じていました。
片思いながら次の段階に進めたいと。
片思いでも、種類や深度、変容といった異なる段階が多数あると考えられます。
ただ遠目に見る、挨拶をする、言葉を交わす、プレゼントを贈る、二人で出掛ける、等々。
いずれ両想いになる道もあれば、一方で果てなく平行線を辿るだけ、または思うことすら許されないといった報われない道もあったりします。
翻って自分の片思いを分析してみてみると、一年に一度お守りを持って登場し、十分ほど言葉を交わすだけという七夕の片思い版とも言っていい状態。
そこで停滞してしまっています。
だから、なんであれ一歩前へという実績が欲しくなったのです。
それが自分の場合、お茶に行きましょう、との太古より使い古されながら、今もなお連綿と生き続けている典型的な誘いの言葉となって表れました。
この場合、言葉を口にするのが主目的で、結果についてはさほど重みがありません。
自分が一歩前へ踏み出せたという功績を得るためですから。
積極的になれた、という勇気。これがあれば、他のことにも前向きになれるかもしれない、という短絡的な考えがありました。
今思うに、どれだけ自己中心的だったかと猛省します。
しかも計画的にそうしたのでなく、ほぼ無自覚で実行したのだからタチが悪い。
心が無いにしても、やっていいことと悪いことがあります。
断られると知っていながら、お茶に誘ったという既成事実だけをむしり取ろうとしたのだから。
さらには、白山さんの調子が悪そうな時にそれを実行したのは一層邪悪です。
絶対に断られる場面で、本当に断られる。
その時にこちらが受ける衝撃はほぼありません。
断られるかもしれないと思いつつ、本当に断られた時とは比較にならないほど傷は浅いか、まったく無いかです。
そもそも傷付くだけのデリケートな心がないのに。
恋の袋小路、というといささか格好つけすぎだとするなら、片思いのどん詰まりとでも言いましょうか。
そこに陥っていた自分は何らかの変化が欲しかっただけです。
我ながら自己中心的、我ながら腹黒い。
こんな人間は恋愛する資格が無いと思っています。
幸いというか、スキゾイドだと気付いている今では、恋愛感情が欠落しているのももっともだと認識していることだけが周囲にとって救いです。
でなければ、これから先もふと気になった異性に、「これは恋心か?」と思い込んで、何につけて彼女の周りをうろつき回り、迷惑を掛けることが出てきてしまうかもしれなかったのですから。