鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

教師だからといって

かつて、深夜番組で貧乏生活をしている方のお宅へ訪問し、その生活法を面白おかしく放映するものがありました。

少ないお金でどれだけ楽しく暮らすか。

貧乏なのはお金だけで、生活者のその潤沢な発想に驚いたり感嘆したりすることもあり、また、ただ単にそれはケチなだけでは、と突っ込みたいこともあったりと、結構楽しみにしていました。

 

深夜帯の人気番組の常なのでしょう。

やがてゴールデン帯へ移動します。

そうすると、深夜でこそ出来ていたエッジの効いた部分がそぎ落とされてマイルドになり、面白みも淡くなったため、いつしか見なくなってしまいました。

今ではもう打ち切りになっているようです。

 

大学院へ通っていた時に同期生の間で、ふとその番組の話題が出ました。

「あれ面白かったよね」と自分が言うと、某K君が「そうだね」と同意してくれました。

がしかし、その後の彼のセリフが忘れられません。

「貧乏人を見下して気持ちよくなれる番組だよね」と。

 

驚きです。

少なくとも自分はその番組を見て、出演者として出てくる貧乏さんと言われる人たちを見下したことはありません。

というか、反対にお金が無くても工夫をすればお金持ちなんかより生活をもっともっとカラフルにできると、感心していたくらいです。

見下すなんて考えもしなかった。

 

でも、その驚きは、彼が教員を目指していたからより倍増されたせいかもしれません。

他者を見下して気持ちよくなる。

なんというか、一言で言うなら、下衆です。ゲス。

なんでもない会話の中にこう言った感想をぶち込んでくる人が学生を導く教師になる。

それが許されていいのかどうか。

こういう人は、例えば学校でいじめがあった場合知らんぷりをしそうです。

焚きつけはしないでしょう。しないで欲しい。しないといいな、と願います。

 

中学生、高校生、なんだかんだで子供です。

自分のことを振り返って見ても、ずいぶん恥ずかしいことばかりしてきました。

大人だったら絶対しないだろうこと、絶対するであろうこと、そういうのが自意識過剰によってやってみたり、できなかったり、その狭間で葛藤したり、そんなことを繰り返してきました。

特に自分は他者と関われなかったため、よりわがままで、より自己本位だったように思えます。

そのような時に、教師は全面的ではないですが、ある部分では未来への指針となっていました。

立派な教師も……いた、と書こうとしましたが、思い出せません。

いなかったのか……?

あれ、じゃあ、別に指針にもなっていなかったのかも。

 

ともあれ、他の生徒にとっては未来への水先案内人になり得る立場の人間です。

それなのに、他者を見下して気持ちいいとのたまう輩がその地位に就くというのはいかがなものかと。

中学生、高校生は、確かに子供です。

でも、何でもかんでも言われるままに取り入れるほどのおバカでもありません。

教師がおかしければ、内心でおかしいと判断します。

 

怖いのは、その教師と同じような精神を育みつつある生徒が、その心を教育によって補強させてしまうことです。

他人を蹴落とすと何だか気持ちいい、そう考える生徒がいたとします。

真の教育では、他人より優位に立ちつつ、相手にも尊崇や慈愛の念を忘れない、とするのが一番でしょう。

そんな立派な教育をする教師を見たことはないですが。

けれど、そのK君のような教師と出会い、ちょっとした言動から「あの教師も、他人を蹴落とすことに快感を感じている。だからこれは別に持っててもいい感情なのだ」と思い込んでしまうことが怖いのです。

本来ならおかしいと感じるべき時におかしいと感じられず、むしろ同調し、さらにおかしさを自己の中で成長させてしまうこと。

性格がよろしくない教師が反面教師になりえなかった時の危うさがそこにあると思われます。

 

大学生になるまでは、教師ってなんだか大変でそれなりに人生経験を積んできた人、というイメージでしたが、実際は違います。

教師だからといって、みんながみんな立派なわけではなく、中にはとんでもない価値観を持っている人だっています。

歪んだ価値観を持った自分から見ても、さらに歪んでいると思われる人が教員免許を取っているのですから。

そのK君、母校の出している学部の情報誌に動向が記されていました。

今ではとある女子高の国語教師をしているそうです。

もう危険しか感じません。

 

そこで提案です。

教育者になるにあたって一番大事なのは、知識や経験ではなく、その人格だと思われます。

今の教職制度では、その人格を慮る部分がほぼ無いと言っていいでしょう。

だから、変な教師が出現し、ロリコンだったり、覗きをしたり、挙句の果てに生徒と不適切な関係を持ったりします。

それらを防ぐには、教師になろうとする人が本当に安全なのかを、周りが判断してから初めて教員免許を与える制度にすればいいのでは、ということです。

具体的には、教員になる人は、その知人、友人、大学の教員等から二十人分の推薦をもらわなければならない、と定めることです。

二十人は今思い付いた数字ですが、多分十人では少ない。

三十人では多すぎるので、その間を取った感じです。

 

精神を病むと、救いを求めます。

もし、過去に自分を支える真実を語ってくれる教師がいたら、そう思っての一稿でした。