与えられた価値観を捨てて
うつ病になり、心療内科でカウンセリングを受けて自身がシゾイドだと判明するまでずいぶん無理をしてきました。
身体的にではなく、心理的にです。
何を必要としているのか、本当のところで掴めないまま、周りが望むと思われるものを望み、手に入れ、あるいは手に入れようと努力してきました。
自分という核を持てずに過ごしてきてしまったから、自業自得です。
云わば、他者から与えられた価値観の中で生きてきた、となります。
カウンセリングを受け、自分の本当の望みを真剣に見極めた結果手に入れた独自の価値観。
それは、世間一般のものと大幅に異なるものでした。
物には興味がなく、精神的な充足を求める、そう以前の記事で書きました。
与えられた価値観の中で、自分は物質的充足を強く求めました。
病を発し、価値観の転換が行われた後では、部屋にあった物たちが嫌悪の対象となります。
こんな物たちのために自分は無理をしてきたのかと。
だから、うつ病療養中で無理の効かない体力を押してしたのは、それらの不要物を捨てることでした。
強迫的に「捨てなければ、捨てなければ」と思い込んでいました。
使わないのに集めていた安物の腕時計や、ゲームセンターのUFOキャッチャーで取ったトレジャー、ぬいぐるみなど。
また、中学生の時に乗っていた自転車も捨てに行きました。今考えれば、ロードバイクとしてはかなり性能もよく、丁寧に手入れすれば末代まで乗れるくらい丈夫でわざわざ捨てる必要もなかったように思えます。
けれど、物を持つの嫌気が差している自分がいて、捨てることを止められませんでした。
好きなバンドの限定額縁とか、お金になりそうなものはヤフオクを使って手放したりと、一応頭は使って処理をしてはいました。
片付けという名の戦が済んで部屋を見渡すと、ほぼがらんどう。
病室みたいです。
捨てられなかったのは愛着のある文庫本と辞書類、それから長年連れ添ってきているため魂が入っているだろうぬいぐるみ、それくらいです。
意識高い系の人の言葉で言えば、ミニマリストとなるでしょうか。
自分は意識が高いのではなく、混濁していただけでしたが。
それでようやく落ち着けるかと思いきや、そうもならず。
なぜかと言えば、究極のところ、自分が物質だからなのです。
捨てたいのに、こればかりは捨てられない。
価値がないものなのに。
物質的価値観を否定したが故に、自己の物質としての存在に嫌悪を覚えています。
少しは物の価値を認めておいた方が、この文脈においてだけは楽だったのかもしれません。