そこにある石
うつ病になって気付いたのは、それまでの生活が本当に運が良かっただけだということ。
社会にはあらゆるところに人を躓かせる石があるのだと思い知りました。
うつ病を発症したのは、臨時、非正規、派遣という期限付きでない職に就きたくて、少ない選択肢の中から選んだ介護施設にてです。
それまでの本で囲まれた仕事とは大違いで、ひたすらに戸惑い続け、迷い続け、悩み続け、何にも答えを出せないままに精神の崩壊へ疾走していきました。
走っている最中は、頭が壊れているとは思えず、絶対に何かここを突破する鍵があると足掻いていたのを覚えています。
思いがあれば天に通じる、そんなことわざがあった気がしますが、まさにそれを信じていました。
なんだったかな、思い出さないと頭の回転が死んだままになりそうなので考えます。
……思い出せないのでネット検索してしまいました。
一念天に通ず、です。
思い出せないというか、漠然と字面だけ絵として頭にあったので、ちゃんとした文では出せなかった可能性もあります。ちゃんと知っていなかったという。
精神一到何事か成らざらん、ということわざもあります。
思い続けていれば、考え続けていれば、必ず目の前にある困難を攻略できると信じていたのです。
何がそんなに苦しかったのか、難しかったのか。
ちょっと考えても憂鬱になるくらい沢山出てきます。
まず仕事の本質。
老人ホームは、死にゆく人が利用する施設だという見方がどうしても拭えず。
そして、それゆえに本質がそこにあると思っていましたし、実は今でも思っています。
回復して家に戻る人というのはごく少数なのでは、と。
特に自分が就いた職場は特別養護老人ホームだったので、要介護度が重い人が多く、亡くなる方が多かった。
一生懸命お世話をして、でも失われていく命。
意識があるのかないのか、話しかけても、触れても、何の反応も見せない相手。
自分の仕事に意味があるのは分かっていても、同時に自分ならばこうした施設には来たくないという思いもあり。
死に方を選べず、自分もそういった風になる可能性も全く否定できず。
惑乱です。
混乱状態の中で意味を問いかけ続けつつ、仕事に追われる。
その仕事の意味があるのか、仕事を終えても考える。
色んな考え方があるのは承知しています。
自分の考え方が不謹慎だというのも、もちろん。
単に考え過ぎ、そこまで介護者は考えなくても良いという見方もあるかと思います。
それでも、何が正解で何が間違いか、永遠に決められないテーマだと棚上げにしたくなかった。
何か難しい問題が持ち上がった時に、答えのないのが答え、と言って思考を止めてしまうやり方が多くあるように見受けられます。
自分は納得できません。
納得しないと動けない人間です。
何事にも意味を見出したい人です。
それがどんなに些細なことでも、動機が欲しい。
そう考える人だから精神を病んだのかもしれません。
そう書くと厳格な人間に見えるといけないので言っておきます。
大体いつも下らない事を理由にして、それを動力源にしています。
ですが、老人ホームに勤めていた時はそれが出来なかった。
当たった壁が大きすぎて、小さなものを代替として使えなかったから。
少しでも立ち位置を変えれば、もしかしたら明瞭な答えが見付かる可能性もあったのか。
わかりません。
歩くたびに壁にぶち当たり、打ちのめされてそこに倒れる。
起きると再び壁に向けて走り始める。
ここだ、ここを抜ければ、と、馬鹿みたいに何度でも。
そんなことに体力を奪われて弱ってしまっていた。
するとハイエナのように弱った人間の匂いを嗅ぎつけて、さらに傷付けようとする人や出来事がやってくるのです。
そういったことがあるのを、うつ病になってから知りました。
正確に言うと、うつ病の療養中に過去を振り返ると、「そうか、弱り目に祟り目っていうことわざもあるし、自分がまさにその状態にいたのか」という風に。
具体的に書けるかと思い、助走としてこれまでの文章を書いてきました。
けれど、まだ早いみたいです。
その詳細を思い出そうとすると、まだ心が痛い。まだ駄目です。
今無理に思い出すと、発症当時に返ってしまいそうで。