鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

軌跡~ある教員サークルの興亡~16

サークルの模擬授業でも、好んで自分の隣に来る人はいません。
もっともガラガラの教室で行っているので、余程仲良くない限り隣同士にはなる人は多くありません。
というか、一年生の米野さんと染谷さんの同じ女子高出身コンビと、土屋君と片瀬さんのカップルだけがくっついていて、他のメンバーは皆一人で座っていました。
 
語尾に「グフフ」が付く保科君もいますが、並んで座るほど仲良くなく、彼は一人で何かぼそぼそと呟いていて満足げに笑っています。
不気味ですが、周りの目を気にせず自己の世界で充足しているようにも見え、そこに羨ましさがありました。
 
振り返れば、小学校、中学校、高校、それから予備校の学校生活でもこの保科君と似たような人はクラスに一人か二人はいました。
一人でいてもニコニコと、いや、ちょっと気味が悪い部分もあるので、ニタニタと笑って虚空を眺めているような人です。
他の人が懸命に、または漠然と追い求めている幸せの青い鳥を彼らはすでに胸の内に飼っているように思えたものです。
読書や音楽、歩くことや夢想、好きなことはあっても、自分はそれらを周りに気遣いながら出しか行えませんでした。
ちょっと特殊な本、ちょっと突飛な音楽、人目を引くジャンルに興味はあっても人目を気にして手を伸ばせませんでした。
我を忘れて、周囲からの目も意に介さずに趣味に惑溺するといったことがどうしてもできなかった。
言い換えれば、オタクになれなかったのです。
 

 

思えば、自分が少なからず仲良くなれた人にはオタク的要素を備わっていた率が高かった気がします。漫画の二次創作、クイズ・雑学、鉄道など、各種のジャンルに突出した知識を持つ人が周りにいました。
保科君はいわゆるミリオタ、ミリタリー=軍事系のオタクでした。
口を開くたびにローマ字と数字を組み合わせた単語が出てきます。恐らく兵器や銃器の名称でしょうが、自分にわかるはずもなく。
でも時々、「アーカー」といった聞き覚えのある単語に、「それオウム真理教も使ってたか、使おうとしたかのものだよね?」と口を挟むと、とろけそうな笑顔を向けてきます。
「そうなんだよ、グフ。A(アー)K(カー)47って言って、ソ連軍の装備だったんだけど、その実用性、耐久性、生産性が世界最高水準で、世界で最も多く使用された銃としてギネス登録されてるんだよ」
と補足説明も忘れません。
 
自分にはそういった物、事に関するこだわりが薄く、それこそがスキゾイドの特徴でもあるのですが、生活の大部分をある特定の対象に捧げた人と仲良くなれたのは、彼らに対する敬意と羨望とを嗅ぎつけられたためではあるまいかと推測します。
彼らの知識量、対象にかける情熱、愛情、探求心、そして、それらを知りたいと覗き込む人に対する親切心には並外れたものがあります。
そんなことも知らないの?と呆れられたりもしますが、馬鹿にされることはなく、むしろこちらが知らないことを知っているのが、彼らの自尊心をくすぐるようでした。
自分が一般人より世間知らずだったというせいもある気がしますが。
 
それなのに、自分は彼らに対し心を許していたかというと、そんなこともなく。
自身の世界で充足しているのだから、周りを脅かし、傷付けることはない。基本的に優しい人たちなのだから、飛び込めば受け入れてくれたのかもしれません。
それなのに、そうできなかったのは孤立型人間の特性もあったでしょう。
でも、それ以上に自分独自の理由があったように思えます。
 
自分が絶対に敵わない点を彼らが備えていたこと。
ある特定の分野への知識、興味、探求心、といったこちらが到達し得ない高い位置に彼らがいると考え、そこから見下ろされるのを避けたかった。
現実はそんな見下しなどなかったはずです。
でも、妙な自尊心がそれを見せてしまっていて、距離を縮められずにいました。
友達が出来ないと悩みつつも、その原因を作っていたのは自分です。
お腹が空いたと言いながらも、差し出される食べ物を底の抜けた袋で受け止めようとする理不尽な構図がまさに自分に当てはまっていました。