たった一人の友達すらも
中学、高校とエスカレーター式の学校に通っていました。
ですから、高校に入学したと言っても、周りは同じ顔ばかり、ということにはなりませんでした。
というのも、そもそも中学だけで10クラスもあり、名前も顔も知らない人の方が多かったのです。
さらに高校へ行くと、中学の倍以上の生徒を外部から入学させたので、余計知り合いと一緒になるという確率は低くなりました。
高校へ入学した初日、クラス分けが学校の入り口にあるホールに張り出されていました。
一学年で20クラス以上あるので、見付けるのも大変でしたが、何とか自分が行くべき教室に辿り着きます。
元々中学時代の友達が少なかったので、期待はしていませんでしたが、仲のいい人は誰もおらず。
話を出来る知り合いすらいません。
憂鬱な高校生活のスタートでした。
それでも、昼休みには中学時代の友人と出会い、彼らも「同じクラスに仲良くできそうな人いないなぁ」と言っていることでいくらか慰められたように思えます。
つらい状況でも同じような体験を共有している仲間がいれば、意外と人って耐えられるものです。
かといって、いつまでも友達が出来ないのはつらいもの。
何とか同じクラスに話せる人を探そうと努力はしました。
今の自分では考えられないほど、楽観的かつ行動的です。
昼休みや放課後に集まって話していた中学時代の同級生も、各々が同じクラスに友人らしき人を見付け始めています。
焦りが募りました。
そんなある日、おかしな国語教師が生徒の名前を読んではその意味を勝手に解釈し、勝手に発表するという授業を行いました。
例えば名前が「幸一」だとしたら、「幸せで、何でも一番になれるよう願っていたんだろうな。どうなんだ?お前は幸せで一番か?」という風に嫌味の一つか二つを添えながら。
正直言って不愉快な教師でした。
自分の名前は古めかしく立派で、思いっきり名前負けしています。
そんなだから、その教師にとっての格好の餌食になりました。
昔から大っ嫌いな名前です。
今でも、例えば病院でその名を呼ばれるだけで一段階落ち込むほど嫌いな名前です。
どんなに気持ちが良く、気分が良い時でも名前を呼ばれるだけで「うぅ」と胸が苦しくなるくらい嫌悪感を抱いています。
その教師はこちらの苦しみを知ってか知らずか、他の人より丹念に皮肉と嫌味を込めて名前をいじります。
自分はただ俯くだけでした。
明らかに教師によるいじめですが、上でも書いた通りつらい状況でも同じ体験を共有する人がいれば何とか慰められるものです。
恐らく今ならば十分問題になって、マスコミにも取り上げられるほどのことを言われました。
国語教師の名前いじりはその後も続き、T君がやり玉に挙げられます。
彼の名も、自分と同じく古風で重いものでした。
口答えも出来ず、ただ耐えるだけなのはこちらと同じ。
授業後にトイレへ行こうとT君の側を通った時、彼はこちらへ向けて「ひどい目に遭ったね」と言ってきました。
「ほんとにね」
心からの同意を込めてそう言いました。
そこで二人の間に何か溶け合うものがあったのです。
その後、例えば体育や音楽など、移動を伴う授業の際、T君と少しずつ話をするようになりました。
これは友達と言えるのではないだろうか。
そう考えられるほど、仲良くなった気がします。
高校二年の頃からからかいがいじめになり、よく学校をサボるようになりました。
サボりのせいか、いじめのせいか、T君とも疎遠になってしまい。
やがては廊下ですれ違っても目も合わせないような関係になりました。
時は流れ大学四年の春、家のポストに一葉の葉書が舞い込みます。
送り主はT君。
時を超えた友情再開かと一瞬期待しました。
「お久しぶり。お元気ですか?」
文章はそう始まっていました。
ですが、気付いていました。それが私信ではないことに。
なぜならば、葉書の下部に世間でも名の通ったとある保険会社の大きなロゴが入っていたのですから。
「ところで、生命保険に入ってる?会って話をしたいんだけど」
そう、浪人せずに大学を卒業していれば同級生は社会人一年生のはず。
T君は保険会社に入り、ノルマをこなすために手当たり次第のコネを使って勧誘を勧めているのでしょう。
かつての淡い友情はそこで終止符です。
分かったのは一つ。
高校生の頃、自分に友達は一人もいなかった、ということ。