鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

軌跡~ある教員サークルの興亡~22

 

集合写真を撮影することになり、自分は何気なさを装いつつ、白山さんの近くで、あわよくば隣で写ろうと彼女に近付きました。

以前書いたように、チューターの仕事は中学高校でいう担任教師に相当します。

そういった役割を持つ人ならば記念撮影の際、一人の場合は集合写真の中央にいて生徒がその周りに広がる構図に、二人ならばそれぞれが左右の端に位置し生徒を挟む構図になるのではないでしょうか。

私立文系コースのチューターは二人。

とすれば、彼女らは両端に向かうのではないか。そう予想します。もしかしたら二人が並んで中央に立つかもしれないとも考えましたが、動きを追うと二人の足は団体の両端へ向いています。

 

まず白山さんではない方のチューターが、右端に位置を定めました。彼女はそこで仲の良かったらしい女子と手を繋いでいます。だから、今から別のところへ移動しないはず。

だから自分が狙って移動したのは左端。

白山さんも数人の生徒と言葉を交わしながらこちらへ近付いていきます。

(勝った)。

思いました。読み通りだと。

内心ほくそ笑みつつカメラに無感動な顔を向けていると、女子の五人組がキャイキャイ騒ぎながら白山さんを囲み、自分が立つ位置とは逆の方向へ連れ去ってしまったのです。

そこでタイムリミット。

シャッターが切られました。

 

 

右端に女子に囲まれた白山さんと、もう一人の名前を忘れたチューターが並び、左端には「放心状態」の見本図のような間の抜けた顔をした自分。

そんな間の抜けた写真が、後日自宅に送られてきました。祝賀会で焼き増しをお願いしておいたのです。

間が悪い人間というのは、運も悪いものです。その好例がこれ、自分です。

 

祝賀会の最後、散会の挨拶を担当したのは白山さんでした。

彼女は最後に、「ここを出てからも、何かあれば是非遊びに来てください」と言いました。

世慣れていれば、それがいわゆる社交辞令だとわかったでしょう。

けれどそうでない自分は、その言葉通り(そうか、ここを出てからでもまた来ていいのか)と、言葉通りに受け取りました。

そう受け取りたいとの願望が、判断をくらませていたせいでもあったかもしれません。