神様を信じる
神様を信じる。
今の私の心模様の一幕に、その思いがあります。
といっても宗教的な意味合いでなく、もっと原始的な精神の働きです。
うつ病になり、出来ることが少なくなっていき、日々打ちのめされることの連続。
治療を始めても薬が合わず、加速度的に体調が悪くなることもありました。
薬を飲まない方がまだ調子が良かったのでは、と思えるほどに。
そういった折に、せめてもの魂の救済を求めて既成の宗教の教えを調べたりしました。
気持ちが落ちていくのは仕方ない。
けれど、落ちにくくするために何かしらの取っ掛かりがあって欲しいと考えました。
その意味での魂の救済です。
家は多分浄土宗か浄土真宗かの檀家なのだろうけれど、これといって仏教色の強い儀式や祈りをした覚えがありません。
お墓参りもなぜか子供の時に行っただけで、十代半ばからは行かなくなりました。
本やネットで各宗教の概説を読みますが、私が求めている救いとは違います。
そもそも自身がどんな形の教えを求めていたのかも、はっきりしていなかったのですが。
私が見た説明の多くは、とにかく善行を積みなさいという風に書かれていました。
どの宗教にも関わらず、凡そそれが教えの土台にあったと思われます。
それは分かるのです。
良いことをすれば、やがては良いことが返って来る、かもしれないと。
ですが、今落ち行く心をそこに止め置くだけの力を持った教えはなく、胸に響くものは一つもありません。
どうやら既成の宗教の中に、精神病を救えるものはないのでは、との一応の結論を得ました。
そこには、あらゆる苦しみを自分のせいだとする、うつ病者独特の思考回路も一翼を担っていたのかもしれません。
つまり、苦しみは他者によって慰められるものでなく、自身が引き受けるしかないのだとの思い込みです。
何でこうなってしまったんだろう?
おそらくはうつ病者が一番多く、一番真剣に自身へ向ける問いだと思います。
私がそうでした。
それこそ何百回、何千回と毎日のように自らへ問い掛けています。
病気のせいで思考が滞り、結果堂々巡りになるのが常ですが。
それでも自省の時の中で、鋭く光るものを見付けることがあります。
見失わないよう、静かに腕を伸ばすと、手の平に鈍いながらも痛みを持った断片としてそれが残ります。
人を傷付けた記憶。
どうしてあんなことをしてしまったのだろう。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
どうしてあの人に手を貸してあげられなかったのだろう。
後から後からそれらが思い出され、手の平に乗せられないほどになります。
その時は見過ごされても、巡り巡って今、まとめて罰となってこの身に降り注いでいるのだと思われてしまいます。
見過ごしたのは何者か。
それが神様です。
今私に罰を与えているのも神様。
そういった経験から、私は神様の存在を信じています。
悪いことはできないものだと思い知ったのも病気になってから。
うつ病が治った暁には、もう誰も傷付けまいと決意しています。
弱った精神ながら、その思いは強いと思えます。
うつ病者の中でそう考えるのは、私だけではないのではないでしょうか。
幼い時から、誰も見てなくてもお天道様は見ている、そんなことを教えられた人は皆、似たようなことを思うと推測します。
それで本当に回復時に良い人でいられるとしたら、うつ病にも良い側面はあると言えるでしょう。