軌跡~ある教員サークルの興亡~140
「必ずしもそうじゃないと思うぞ。繰り返すけど、お前はまともなんだよ。俺なんかよりずっとな。確かにこのサークルにはまともな奴は俺と河合だけだ。でも、お前は別格なんだよ」
「それはどっち方面に?上?下?」
「上下じゃ計れないな。別次元でだ」
「そう……」としかコメントのしようがありません。
「いや、でも俺はお前に勝てないなって思ってるんだ」
「どういう意味で?」
「河合が俺の立場にいたら、英語の教授にだって向かっていくだろ?桃野さんに注意した時みたいに」
想定外の質問に、答えを出すまで時間を要します。
その間土屋君は、先ほどとは異なる手順でジッポーを弄んでいました。
「わからない。そもそも彼女がいないから、想定もできない」
それが正直に自分の行動や考えを分析した結果です。
「わからなくても、俺や香奈が見ている河合はそういう人間なんだよ。そこが救いであり、敵わないと思うところだ」
「そんなに大した人間じゃないよ。現に、片瀬さんの話を聞いても何が出来るわけでもないし」
「それは香奈も知っているだろうな。河合に何かしてもらおうと期待してはいないと思うぞ」
人を上げたり下げたりで、土屋君の、それから片瀬さんの自分への評価が分かりません。
「俺はな、あの教授に怒っている。ぶん殴りたい気持ちもある。でも、怒りをぶつけて大学にいられなくなると考えると、そうできない」
「自分もできないよ、それは」
そう言うと、土屋君は「いいや」と否定しました。
「河合ならしそうだ。大学なんてどうでもいいと思ってるだろ?それから将来のこととかも」
「そんなこと……」
否定で返そうとしますが、できません。
どうでもいいとは思っていないだろうけれど、何も考えていないのは確かです。
そして世の中はそれを、「どうでもいいと思っている」、と言うのでしょう。
「保身とか、流れに乗るとか、付き合いで自分の信念を曲げるとかしないだろ。だから、どこか世間とずれているし、友達も作りにくいんだろうけど、そういうのが俺から見れば信用できるんだよな」
またもや下げたり上げたりの発言ですが、わかる気もします。
自分も、雰囲気に流されて盛り上がり、その場だけ異様に馴れ馴れしくなるものの、時間が経つと素っ気なくなる人は信用できません。
そう言ったことを考え合わせると、土屋君と友達同士になったのは、二人の性格から見て自然な帰結だったのかもしれません。
ただ、当時の自分も土屋君もわかっていなかったことがあります。
こちらが世の流れに執着しないのは、自身がスキゾイドのためだったということです。
自分は、いわゆる一般常識に価値を置いていませんでした。
正義とか、倫理、道義も自己流に解釈していました。
だから、自分の考えるそういった理念と現実の世界の出来事とは、薄い関わりしかありません。
はっきり言えば、現実に興味が持てないということなのでしょう。
その代わり、条件がいくつも重なり、現実が自分の精神世界の秩序を脅かした時には激しく反発します。
桃野さんへの反抗がその表れの一例です。
土屋君がスキゾイドであったとは考えません。
自分から見て、彼は普通になろうと思えばなれる人でした。
少しばかり価値観が狭隘だっただけです。
たまたまその価値観に、やはりこちらの病的な偏狭さと重なる部分があったため、そこをきっかけに仲良くなれたのでしょう。
土屋君はもっと多くの人を知れば、他にいくらでも仲良くなれる人を見付けられる可能性を秘めていたと思います。
一方で自分は違います。
少しとは言え、自分を認めてくれるのは彼しかいませんでした。
それでも「よく」理解してくれたかというと、首肯するのにためらいが生じます。
土屋君はこちらの考え方に、興味や興趣を持ったのでしょうが、恐らく理解はしていなかったと思われます。
語弊を承知で言えば、彼は自分という見慣れぬおもちゃを見付けて、面白そうだと思い、手でいじってみただけです。
もっとも人と深い関わり合いのできない自分には、その距離感がちょうど良かったのですが。
分解して、成り立ちを解明しようと密着されていたら、自分は離れて行ったでしょう。
いじって遊んで、飽きたら放っておいて、また暇になれば手に取る。
それくらいがベストの距離感だったのです。