鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

個室をその手に

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人はいつ大人になるか。

身体的なことを言えば、第二次性徴が現れる頃でしょう。

男子で言えば精通が、女子で言えば生理が始まる次期。

 

一方で精神は、ただ年齢を重ねただけでは大人になったとは言えないように思えます。

年齢的にはいい大人が子どものように他愛のないことをして事件になるのがその証明です。

そういった人々は大人へ続く階段を上り損ねたのか、上がったはずが段を踏み抜いてしまったのか。

子どもから見ても呆れるほどおバカなことをする大人っています。

 

では、精神が大人になったと言えるのはどのような時か。

わがままを言わなくなる。

自分のことより周囲を優先するようになる。

社会のために何が出来るかを意識して行動するようになる。

こういった考え方ができるようになった時、あるいは人は大人になったと言えるのかもしれません。

上記の定義にいずれも当てはまらない自分は、まだ大人になり切れていないことになってしまうのですが。

 

けれどそんな私でも大人になれたと思った瞬間はあります。

Hな本を買えた時、などのビッグイベントは別に語るとして、もっとささやかな大人への階段を一段上がったことについて今回は述べます。

これまでにも書いてきた通り、私とトイレとは切っても切れない縁にあります

トイレの個室は私にとってリラックスの場であり、瞑想の場であり、食堂の場でもありました。

おまけで言うと、排泄の場でもあります。

 

けれどトイレの、特に自宅外の個室をそのように自分のものとして自由に用いられるようになったのは、そう遠い過去ではありません。

小学校の頃、個室トイレはあっても行ってはいけない場所でした。

そこへ入ったのを同級生に見られたが最後、翌日からあだ名は「ウ〇コマン」になるのは確定です。

 

中学でもその恐れはありました。

ただし、この時期は小学校の時のようなあだ名に自然と可愛さを織り込むといった優しさは消滅し、「~~マン」の「マン」が省略され、そのものずばりの「ウ〇コ」があだ名になってしまうように危険性はむしろ増してもいました。

 

では、高校はどうか。

さすがにあだ名を排泄物名にするほどの子供っぽさは消えているでしょう。

ですが、いじめられている自分の場合、個室に入ると上の開いた空間からゴミや雑巾やひどい時は水が降ってくることもあり、決して安寧の空間にはなり得ませんでした。

 

それゆえに、高校を卒業するまでトイレの個室は私にとってそこにありながら無いものである、との二律背反構造を内に秘めた構築物であり続けたのです。

 

私が胸を張り、大々的に個室デビューできたのは、予備校生になってからです。

自宅の外であるにもかかわらず、他者を(それほど)意識することなくリラックスして用を足せる。

すばらしい体験でした。

その時に自分は一つ人生のステージが上がった気になりました。

つまり、こうしてトイレの個室で本来の自分とゆっくり向き合えるようになったことが、私をして大人への段階へと上がらせた一つの契機となったと言えるのでしょう。