軌跡~ある教員サークルの興亡~104
片瀬さんは、「村上春樹」と聞いて目を輝かせたのも道理で、ただ本を読んでいたのではわからないことをよく知っていました。
相当熱心はファンのよう。
ファンというか、フリークかマニアと言ってもいいほど。
村上春樹が芥川賞を取れなかった理由、彼の原稿を編集者が勝手に古書店で売っていたこと、作品の一つ『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』には原作があり、そちらだと結末が正反対になっていることなど、自分だけでなく、その場の全員が知らなかったことを披露してくれます。
知識をひけらかすといった風でなく、そういう裏事情があるからこそ、なお作品が面白いのだといった販売促進のアピールに近かったかと思います。
鼻持ちならないハルキストという人種とは違います。
人格のモードが例のごとく変わったのか、話が尽きず、よくこんなに淀みなく次々に言葉が出てくるなと、息を呑みました。
片瀬さんの話を傾聴していたメンバーも、徐々にその話術に圧倒され、呆気にとられる寸前でパタンと幕が下りました。
いきなり体の主電源が落ちたように、片瀬さんはピタッと口を閉ざしたのです。
すべて話し終えた、そういった満足感が顔に表れていました。
講演会なら自然と拍手が湧いたところでしょうが、なにぶんそこはただの飲み会の席です。
感心してはいても、それをどう表せばいいかわかりません。
その時に自分が思ったのは、片瀬さんがこんな風に話が止まらなくなるのは、村上春樹を語る時だけならいいな、とのことです。
他のことについてもこの調子で喋られると、ただただ驚くばかりで会話が成り立ちそうにありません。
彼女一人の独演会になってしまいます。
けれど、実は片瀬さん、自分の興味があることについては徹底的に調べて自分の中に知識としてため込む性格で、そこに話の矢が飛んでくると、今のようなマシンガントークを繰り広げてしまう人だったのです。
後になって、土屋君からそう聞きましたが、よく彼は片瀬さんと付き合えたと思います。
自分だったら、とてもじゃありませんがついていけません。
話を聞き流すだけでも大変なほどの、言葉の洪水でしたから。