一人称の喪失
前回、小学校五年、六年の時には一人称がなかったと書きました。
ですがこれは正確ではなく、本来は一人称を消した、消していた、と書くべきでした。
なぜなら、小学校四年くらいまで、私には一人称があったからです。
本名の生命の名の方を平仮名にして、その最初の文字を伸ばした後に「君」を付ける、そうやって自身のことを呼んでいました。
つまり、「まー君」と。
さすがに学校ではそう言ったことはありません。
幼心ながら、それが恥ずかしいとの分別は持っていました。
「まー君」と言っていたのは主に家庭においてです。
翻って学校でどの一人称を使っていたかを思い出そうと記憶を漁るのですが、小学校四年以前となると、まるで暗い海の底を歩くかの如くに手掛かりがなく、該当する答えが見付かりません。
もしかしたらその後と同様、一人称を使わずに過ごしていた可能性もあります。
家族相手に「まー君ね、今日元橋君とひと駅分一緒に歩いたんだ」とか言っていましたが、長ずるにつれてそれを恥ずかしいと思うようになりました。
だから四年生か五年生のいつだったか、「今日からまー君とは言わない」と宣言しました。
私が迂闊だったのは、その代替策を用意していなかったことです。
つまり、「代わりに今日からは自分のことを『僕』と言う」との補足が欠けていたのです。
父や母や姉が、「じゃあ、僕とか俺とか言いなよ」とでも言ってくれればよかったのですが、それはありませんでした。
そもそも、そこまでしてもらおうとするのが甘えだとは重々承知しています。
ちなみにそんな片手落ちの経験はよくあります。
大学受験では現役の時に滑り止めを受けていなかったり、大学四年の時に就職試験に全部落ちた時のことを考えておらず海外逃亡したりと、大きなことでもこれくらいのことは他にも多々しているので、小さなことを数えると枚挙にいとまがありません。
今回言いたいのは、子供には小さい頃から必ず自身に合った一人称を持たせるべきだということです。
そうでないと、私のようにいざという時に自己主張のできない頼りない人間になる危険があります。
うつ病の原因を探る時、この一人称の無さが関係していないとはどうしても言えません。
言いたいことを自分らしく言える人間であること。
それが心の健やかさを保つ一要素であると考えられます。
そのためには、子供の一人称具備は不可欠だというのが私的な結論です。