腕章への憧れ
着飾る事の意義は、おぼろげながら理解しています。
馬子にも衣装と言いますし、本人が野暮ったくても身に着ける物に品があれば全体として小綺麗な感じに仕上がることもあるでしょうから。
それを念頭に置きつつも、私は高級な物、自身を飾る物を身に着けないようにしています。
単にお金がないから、お金を掛けたくないからではなく、身に着ける物によって自分の見た目の価値が上がり下がりすることに疲れてしまいそうで、だから避けているのです。
鬱状態で、朝起きた瞬間から疲労で体が持ち上がらない状態なのに、余計疲れることを生活に持ち込みたくありません。
それなら、うつ病になる前はどうだったかと考えるに、今とあまり差異があるように思えません。
そのため私は物心ついて以後、終始一貫して着飾ることなく生きてきたと思っていました。
けれど、スクールバスに籐のシートが使われていた記憶が蘇った時、芋づる式に掘り起こされた事柄がいつくかあります。
そうした記憶の断片の中で一つ、着飾りに関わることがありました。
小学校の低学年時は学校の先生がバスに同乗し、生徒たちが騒いだりふざけたりしないよう目を光らせていました。
高学年の四年、五年、六年になると、先生の代わりに生徒の中から交通係という役が選ばれ、その人が車内の見回りを担当することになります。
その時に、白地にいかめしい緑の文字で「交通係」とプリントされた腕章を身に着けるのですが、それが格好良かった。
皆がそう思っていたかどうかは知りませんが、少なくとも自分にはそう見えました。
日直と同じように、交通係も持ち回りで担当します。
やがて私にもその順番が回って来て、「交通係」の腕章が先生から手渡されました。
その時の誇らしい気持ち、うっすらと頭に残っています。
単純というか、純朴というか、幼稚というか。
上着の袖に安全ピンで腕章を固定すると、自分が一段階上質な人間になった気がします。
恐らく、それこそ高価な物で身を着飾った人のように。
他の人は、バスを降りれば腕章を外して鞄の中にしまっていました。
でも私はそれを付けているのが格好いいと思ってしまい、友達が「外しなよ」と言っても家に帰るまでは付けっぱなしでいたという。
今考えれば赤面してしまいます。
生まれつき持ち合わせていないと思っていた虚栄心が自らにもあったことに驚き、恥ずかしくなり、少し微笑ましくもなります。
普通の人と違ったところに、格好良さを感じてしまうのは何故なのか。
多かれ少なかれ、子供の頃はそういったことがあるでしょう。
でも、交通係の腕章か、と思うと「どうなの?それ」と昔の自分を問い詰めたくもなります。
でも、超高級腕時計とかに走るよりはまだよかったのかもしれません。