可哀想の価値観
女性に対して「どうしてそんなに醜いんですか?」と口走ったK君。
問題行動はそれだけではありません。
お喋りが好きで、講義を遠隔録画する部屋でもずっと喋っていたような。仕事中にも関わらず。
そんなある日、彼は髭についてのことを話題にしました。
「頬にまで髭が生えている人って可哀想ですよね」と。
その口調から、「本当に」可哀想と思っていないのは明らかでした。
小馬鹿にした感じです。
見下しているように。
自分がそうじゃなくて良かった、と。
K君に限らず、身体的・心理的コンプレックスについてそのように言う人は結構多くいます。
あの人みたいに短足じゃなくて良かった、髪が薄くなくてよかった、斜視じゃなくてよかった等々。
そういうのを聞くたびに、ドキッとしてきました。
というのも、自身がコンプレックスの塊だからです。
例を挙げればキリがないほどコンプレックスを纏っています。
精神的にも病んでいますし。
だから、人のコンプレックスを差して「可哀想」という人の気が知れません。
彼ら、彼女らは、言われる人より上位にいるからそう言うのでしょう。
余裕と、見下し。
人として卑しい気がします。
人を見下す人は。
そういう人こそどこかで見下されているのだろうに。
と書いている自分が見下しているのか……。
いやいや、見下すというか、残念に思います。
そんな見方しか出来ないのかな、と。
見下すとなると、その人は下しか見ていないことになります。
その人の頭上の景色や、その人が含まれる水平の景色を切り捨てていることになるのではないかと考えてしまいます。
自分をすら見ていないのです。
もしかしたら自分が見下している人の立場になるかもしれないという展望を持たない。あるいは持てない。
どうしてそう思い切れるのか。
視野が狭まっていないのか。
自分が下の人間だからそう思うのかもしれません。
見下されるべき人間だから。
でも、上に行ったとしても、登ってきた道を振り返って「可哀想」とは絶対に言わないと思います。
いつかそこへ転げ落ちる可能性が、この人生には多分に含まれているのだから。