鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

背が低いこと~後編~:コンプレックス列記

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コンプレックスがあると、日常のどんな場合でもそれが気にかかるものです。

ニキビに悩まされた時は、鏡があると少しでも状態が良くなっていないか覗き込んでいましたし、便秘についても野菜を多く摂り、さらには野菜ジュースや下剤など腸を綺麗にしたり動かしたりするものは何にでも手を出していました。

 

背が低いことについても、古来からあるカルシウムを多く摂るという方法を取っていました。

立っていると重力によって上からの圧力が掛かり、成長が阻害されるという説を聞いてからは必要以上に横になっていました。

お陰で親から、「いつもグダグダしてるな」と言われる始末。

 

町を歩いていても、背の高い人に目が行ってしまいます。

いつか自分もあんな風に颯爽と歩けるようになれるかな、なりたい、と願いつつ。

あわよくば、彼らを見ていれば自分の脳が周囲はあのような背の高さが普通なのだからこちらも変化しなくては、という信号を発するようになるのではと考えたり。

ダーウィンの進化論に影響されていた時期だったのでしょう。

 

そんな時に気になったのは、とあるスーパーの大きな看板。

自分はその無機物と静かな戦いを繰り広げていました。

というのも、その看板の高さがちょうど自分の背の高さと同じくらいだったからです。

こちらの方がわずかに高いか、という辺り。

 

看板の奥はスーパーのガラス張りの壁面となっており、そこに通りの景色が薄く反射しています。

それならば、自分の姿もそこにあるはず、ですがギリギリで見えないのです。

いつも学校でしていたように靴の中で背伸びをすると、制帽の頭がちょこっと見えるくらい。

背が高ければ、向こうの自分と対面できるはず。

背が高ければ……。

 

以降、自分は毎朝そのスーパーの前を通るようになりました。

時々背伸びして、帽子の鏡像を見て自身を鼓舞させながら。

雨の日には傘の影が映るのですが、それを自身の姿と勘違いして「背が伸びた?!」と思ったことも数回。

コンプレックスがあると、そうした思い違いも頻繁にあります。

 

この前、そのスーパーの前を通ってみました。

今もまだ当時と同じ看板があります。

いや、同じに見えて、実は綺麗なものと取り換えたりして何代目かに代わっていたのかもしれません。

ただ、高さはきっと同じはずだったと思います。

 

今の自分は背伸びをしなくても、看板の上に顔を出すことが出来ました。

成長したのです、一応。

 

あれだけ毎朝執念深くその前を通ったのに、初めてガラスに反射する自己の顔を見た時の記憶がありません。

そんなことが現実に起これば狂喜しそうなものでしたが。

思春期に起こった(というか起こらなかった)不思議の一つです。