軌跡~ある教員サークルの興亡~32
またスツールがガタっと鳴りました。
今度は自分が急に立ったためです。のけぞったからではありません。
「あら、もっとゆっくりしていって」
隣の夫人が申し訳なさそうに言います。
ケータイの電源を落とさせたために、席を立ったのかと勘違いさせてしまったようです。
「違います。あの、そう、約束が。会わないと、遅れています。だから」
日本語を習いたての外国人でもしないような、不自然な言葉の羅列で言い訳になっていない言い訳をしながらトレイを持ち上げました。
「ごめんなさい。せめてコーヒーをお飲みになったら?」
ペースメーカーを付けている老婦人にも気を遣わせてしまう。
罪なストーカーです。
せめてもの罪滅ぼしに、半分椅子にお尻を乗せ、グラスに三分の一くらい残っていたコーヒーを即座に飲み干しました。
「あの、ごちそうさまです。行かなくちゃ。すいません」
そうして、もう一度腰を上げて今度こそ席を離れました。
ごちそうになっていないのに、そんなことを言って頭がおかしいと思われたかもしれません。
トレイを返却台に載せ、文字通り店を飛び出ました。
窓の外に白山さんを見かけてから店を出るまでに手間取って、もしかしたら見失うほどに遠くへ行ってしまっているかも思いました。
けれど、コーヒーショップからそれほど離れていない位置にパステルグリーンのシャツを発見しました。
白山さんは急ぐでもなく、のんびりするでもなく、町のリズムに乗って歩いていきます。
予備校のある場所から駅へ流れる人並みは少なくありません。
時間は五時半を過ぎたところ。
ちょっとしたオフィス街なので、午後五時、五時半を終業時刻とする職場から流れ出る人で道が埋まり、思ったように白山さんとの距離を詰められずにいました。
一方通行の車道では、公営バスが歩道からいつ人がはみ出してぶつかってきてもケガをしないような速度でじりじりと前に進んでいます。
だから、車道に出て歩道を行く人の塊を一気に抜き去る手も使えません。