鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

一人称の欠落、そして獲得

 

自分には一人称がない。

 

そう気付いたのは、小学校五年生か六年生くらいだったと思います。

自分で自分のことを何と呼べばいいのかわからなかったのです。

 

「僕」とか「俺」でいいのでは、ともちろん考えました。

でも、「僕」ではひ弱な感じがしますし、「俺」だと乱暴者の印象がありました。

 

では、当時の一人称は何だったか。

答えは、ない、です。

 

 

記憶にない、覚えていない、ではなく、無いのです。

なぜかと言えば、自分で自分のことを呼ばなかったから。

人から意見を求められた時は、答えだけを言います。

「青色が合うと思うよ」、「メンチカツが好き」、「にわとりの方が高く飛べる気がする」、と。

特に、「僕は青色が合うと思うよ」とか、「俺はメンチカツが好き」などと、一人称がなくても話は出来ます。

作文や読書感想文は、皆が「僕は~と思います」とのように、一律に「僕」を使っていたので、自分も安心してそれを使っていました。

 

とはいえ「僕」、「俺」を使わないと、どうしても話がぎこちなくなります。

また、主張が弱くなるといった面もあるでしょう。

ここ一番という所で、「それがいい」と言うよりも、「僕はそれがいい」と言った方が、より個人的意思を反映させているよう聞こえます。

 

そういったひと押しが出来なくてもどかしく思っていた時に、おそらくは中学に上がっていたと思いますが、一人称ではないけれど、それと近い働きをする語である「自分」に出会います。

「自分はプールに行きたい」、「自分は焼き鳥は串から外すのが面倒だから苦手」と、物心ついてから初めて自己主張できるようになり、感動しました。

嬉しくて誰かれ構わず、「自分はさ」と話し掛けていたように思います。

 

それがあまり自然な話し方ではないと気付いたのはずっと後、大学に入ってからでした。

高校の時にもっと話していれば、その時に気付けたかもしれませんが、当時学校で自分が話せる人はいなかったので、そうなってしまいました。

 

ドラマや映画を見ても、一人称が「自分」なのは、警官や消防士、自衛隊といった規律ある団体に属している方が多いかと思われます。

その方々も、友人同士や家族間では「僕」や「俺」と言っていたのではないでしょうか。

自分だけが常時「自分」と言っていて、何だかおかしいなと思い始めたのが先述の通り大学に入ってからなのでした。

 

ですが、一人でものを考える時も、「自分だったらあの人とは付き合わないな」とか、「自分は思考が危険な方に流れやすいのかもしれない」とのように、一人称は「自分」でした。

それは今も同じで、もう固着してしまっています。

 

とはいえ、一度別の一人称に矯正しようと試みたこともあります。

社会に出た時、どうやら「私」という言い方もあるようだと聞き知り、それを実践しました。

最初はうまくいきかけたのですが、男性が使う「私」は畏まった言い回しです。

職場に慣れ、同僚や上司とも打ち解け始めた時に、雑談内で「私は犬派です」などと言うと、場が固くなってしまいます。

それに目上の人からも、「そんなに肩に力を入れなくてもいいんだよ」と遠回しに注意されたりもし、結局元の「自分」に戻ってしまいました。

 

それで、一生自分は「自分」でいいかと思い始めていたのですが、こうしてブログで文を書いていると、一人称が「自分」だと文章として不自然な箇所が多々出てくるのに気付かされました。

例えば会話文を回想する時に、「自分は『自分はバンジージャンプをするべきだったかもね』と言いました」と、「自分」を重ねなければいけない部分が出てきてしまうのはくどいと感じます。

 

特に「軌跡」のような、全体が回想文の文章にあっては、それを痛感しました。

といって、途中からいきなり一人称が変わるのは一貫性に欠けるので、「軌跡」は最後まで「自分」を使い続けようと思います。

一方で、それ以外の文は書きやすさの観点から、一人称は「私」にしようと考えました。

おそらくは、読みやすさにも繋がるはずです。

 

随分と文を書いてきて、やっとその不自然さにきづくのが、やはり頭のネジが飛んでいるためなのかと反省されます。

おそらく、人との会話では「僕」や「俺」を使うのは無理な気がします。

恥ずかしいし、そもそも対話する相手がいません。

慣れようがないのです。

ですからせめて文章では新しい自己表現をしてみたい気持ちが一層募っています。

 

というわけで、次回から私の書くブログにお付き合い頂ければと思います。