軌跡~ある教員サークルの興亡~136
土屋君は打ち明けるかどうかを迷っているのか、ほぼ氷だけになっているグラスを傾けて底に薄く残った薄茶色の水をストローで吸い、唇を湿らせました。
その間手持無沙汰な自分は、店内を何となく見渡したり、BGMが流れていたことに驚いたりしていました。
それまで二人で話していた時には、音楽が流れていることにまったく気付いていなかったのです。
音楽にだけ集中してみると、そんなにボリュームが絞られているのでもなさそう。
例えば、音楽を聴きながら勉強のできない自分が一人でここに自習に来たならば、恐らくはすぐに参考書を閉じていたでしょう。
それくらいの音量はあります。
人間の聴覚は集中の仕方によって、かなり音の取得の範囲が広いのだと気付かされました。
「香奈のことなんだ」
土屋君が口を開いたので、人体の不思議から思考を切り替えます。
「あいつ、水曜から学校に来ていないんだ」
今日が金曜日ですから、丸二日登校していません。
高校までとは違うので、たったの二日でそんなに深刻になる必要もない気がします。
が、土屋君を見ると、そんなことは口に出せない暗鬱な雰囲気が漂っていました。
「退学したいって言ってる」
いきなり事が大きくなり焦ります。
「どうして?」
「あいつなぁ、英語を熱心に勉強していて、講義が終わった後でも男の外人教授によく質問しに行ってたんだ。高校の時から英会話の学校に行っていたとかで、俺が聞く限りではほぼ完璧に英語をマスターしているようだったんだがな」
そこで土屋君は胸ポケットから煙草を取り出しますが、禁煙席だと気付いてもどかしげに元にしまいました。
困惑と苛立ち、それから懊悩が感じ取れる気がします。
「英語教授ともネイティブみたいな速さで喋っていたし、冗談も言ったり、言われたりでしっかり理解していて、英会話には何の不自由もないように見えたよ。
一度、その教授と三人で晩飯に行ったことあるけど、惨めだったぜ。
ほとんど俺は除け者。香奈と教授だけで話しててさ。
はじめ香奈は通訳を務めてくれたんだけど、そこまでしてその教授と話したいと思わなかったから、途中で俺のことは放っておいてくれって言ったんだ、香奈に。
本当は帰りたかったけど、その教授の目が気に食わなくてな。
五十過ぎてるだろうに、ハンターの目をしてるんだよ。わかるだろ?」
「教授が、片瀬さんを狙ってるってこと?」
当時、世慣れていない自分は、大学の教授を妄信的に高潔だと考える傾向にありました。
つまらない授業があっても、人格的に破綻している人はそういないと思っていたものです。
だから土屋君の話を聞いてもピンと来ませんでした。