軌跡~ある教員サークルの興亡~117
渋谷では車内の乗客の八割ほどが降り、代わりに乗ってくる客はそう多くありません。
座席は満員でしたが、立っている人はそれまでよりずっと少なくなっています。
考えてみれば、新宿とは逆方面の渋谷から先へ行くのは初めてでした。
見慣れない景色に、ごくごく小さな不安と興味を感じていましたが、米野さんの一言でそれらは雲散霧消します。
「関係を持った、って言うのかな……」
絶句です。
それが言葉通り、ただ関わり合っただけでないのは、いくら異性交遊に疎くてもわかります。
「聞いてる?聞えた?」
内容が内容だけに、ほとんど内緒話のボリュームで言った米野さんが、そう確認を求めました。
「聞えたけど……本当に?」
かろうじてそれだけ尋ねると、米野さんは肯きました。
「でも、初めて……でしょ?」
言ってから、何を訊いているんだと思ったものの、口から出てしまっては仕方ありません。
セクハラと受け取られたら、甘んじて受け入れようと覚悟しました。
「うん、そう……」
恥ずかし気に俯く米野さん。
恥じらう女性に色気は付き物ですが、それよりも自分が感じたのは薄い気持ち悪さです。
話が生々しくて、書くのも迷うところですが、処女を二股するような男に捧げるのが考えられなかったのです。
逆の方面から見て、付き合っている女性がいるのに、それとは別に未経験の女の子に手を出す本須賀さんの神経も理解できません。
もちろん経験があればいいという話でもなく、この人たちは何なのだろうと、別世界の人間と接した気がしたものです。
最近は、とある女性タレントと男性ミュージシャンとの件もあり、こういった場合に相応しい言葉がよく使われています。
そう、下衆。
本須賀さんに対して持ったのは、それと同種の感覚です。
当時、そう思ったかもしれませんし、まだ不倫イコール下衆と直結して考えることが少なかったとしたら、「あの人最低だな」くらいは思ったはずです。
男子校出身のためか、処女性について神聖視していた部分もあるかと思われます。
だから嫌悪感はいや増しました。
米野さんに対しては、「初めてがそんなのでいいの?」との純粋な疑問と同情の念が交互に胸を横断します。
自分が女だとしたら、初めての時は完全に両想いじゃないと嫌です。
他に付き合っている人がいて、片手間にそんな関係を持とうとする男を軽蔑します。
きっと貞操観念が強いのでしょう。
だから米野さんが理解できませんでした。
(それでいいの?)
実際にそう訊こうとしましたが、肯定されたら余計に混乱するし、何よりも米野さんを嫌いにならないまでも、苦手な人のリストに入れてしまいそうです。
だから口を噤みました。
ちょうど電車も次の恵比寿駅に停車しようと、スピードを落とし始めています。
「驚きました」
何も言わないのもおかしいので、できるだけ無難な一語を選びました。
「そうだよね」
平気で返事が出来る米野さんが、やはり異質な人に思えてしまいます。
「それじゃあ、降りるよ」
まだ電車は停止していませんでしたが、席を立ちドアの前まで行きました。
結局下車する時も、ホームへ出た後も米野さんの方へ顔を向けられませんでした。
その米野、本須賀ショックから立ち直る前に、今度は自らが渦中の中心となる事件が勃発します。