ターゲット・前編
ある日、男性の元に手紙が届く。
便箋を開いてみると、翌日バスに乗った時に運転手に話しかけ、駅への到着時間をほんの少し遅らせて欲しい、と記してあった。
送り先の住所は出鱈目で、筆跡に特徴はなく、そんなことを頼んでくる相手を思い付けなかった。
このことは夜、ベッドに入る前にも思い出されたけれど、男性は睡魔に勝てず、やがて柔らかな眠りの世界へ引き込まれてゆく。
手紙のことを思い出したのは翌日、バス停に立った時だった。
誰ともわからない相手からの目的が不明な頼み事。
それに唯々諾々と従うのは癪だった。
だからせっかく思い出しはしたものの、無視しようとする。
そんな彼の考えを変えたのは、乗車後、前の席に座っている男を見たためだった。
いかにも急いでいる風で、腕を組みながら人差し指で袖を叩いており、膝を絶えず貧乏ゆすりさせている。
イライラもしているのだろう、車内で泣きだした赤ん坊の声に大きな舌打ちを繰り返した。
その子の母親はその男や周りの人に頭を下げ、恐縮し切っている様子だ。
そういったシーンを眺めていた男性は、彼のあまりに情けのない態度を腹立たしく思い、次の停留所に停まった時、運転手のところへ行って回数券を買い求めた。
そして、「小銭がなくて、大きなのしかないんですけど、いいですか?」と万札を出して、わざと支払いに時間を掛けた。
赤ん坊の母親に代わってのちょっとした意趣返しと、気に掛かっていた手紙の依頼を果たしてすっきりしたい気持ちもどこかであったからだ。
回数券を手にし元の席に戻る途中で腕時計を見ると、駅への到着時間に遅れるだろうと予想された。
件の男の横を通る時に舌打ちをされたけれど、「ざまあみろ」と胸の内で呟き、ちょっとしたストレス解消をした気分になっていた。
バスが駅に着くが早いか、男は出口から飛び降り、走って改札へ向かって行った。
その後で男性がゆっくりバスから降りて歩いていると、前方から「ヒャア!」という高齢の女性の悲鳴が聞こえて来た。
何ごとかと急ぎ足でそちらへ向かうと、急いでいたあの男が倒れた老婦人の横に立ち、人垣に囲まれていた。
「俺は何もしていない!このババアが勝手に転んだんだ!」
血管が切れんばかりに顔を真っ赤にさせて、男は誰にともなく怒鳴っていた。
周りの人は皆、そんな彼を信じた様子はなかった。
その横を、男性は「急いでいるから行動が不注意になって、お婆さんに当たってしまったんだろう」と推し量り、通り過ぎた。
ラッシュアワーの時間帯だ。
待つほどもなく電車がやって来、車両に乗り込むと男性は網棚に鞄を載せて文庫本を開いた。
前の電車で急病人が出たとアナウンスがあり、発車は二、三分遅れたけれど、そんなのはいつものことだ。
さして気にも留めずページを繰っていた。
その後電車は順調に進み、会社のある駅に近付いてきたので本を閉じると、五メートルほど離れたところで、「やめてください!」との若い女性の声が上がった。
たまにある痴漢かと呆れつつも、こんな朝っぱらからどんな男が不埒な行いをしたのかと、犯人の顔を拝むべくそちらへ視線を送ると、大学生っぽい女性に腕を掴まれているのはあの急ぎの男だった。
泣いた赤ん坊に舌打ちをし、老婦人を突き倒し、若い女性に痴漢を働く。
とんでもない奴だ、と思う一方で、そんなひどい男がいるだろうか、という疑問も湧いた。
しかしそれは忙しさの中ですぐに消えていく疑念だった。
翌朝、寝ぼけ眼で朝刊をめくっていた男性は地方版の記事のところで一気に目が覚めた。
近くの踏切で男性が電車に轢かれて死亡したのを知らせる内容だった。
そこに添えられている写真はあの男のものだった。