レールのない人生の歩き方
学生生活を終えれば、ここから先はレールのない人生、みたいなことを言っている歌詞や小説や随筆、映画やドラマが多くあります。
一方で、レールのない人生をどう歩くかを教えているものは多くないように思えます。
自分も全然知りませんし、もし今一人いる姪に尋ねられても教えられません。
確か彼女は小学一年生くらい。
レールに乗り始めた頃でしょう。
とりあえず、レールが見えるところはそのまま進んで行きなよ、くらいしか言えません。
そういえば、レールのある人生にも失敗している自分だから説得力皆無ですが。
思い返せば、どこで道を間違ったのか。
敷かれているはずのレールにも乗れない電車って、ポンコツ極まりないものです。
小学生の頃には既に周りから浮いていた気がします。
じゃあ、幼稚園の頃はどうだったか。
その後の人生と同じく、いじめられている記憶があるので、やはりおかしかったのでしょう。
そんな自分が言うのもなんですが、いじめはやはりいじめる方にだけ問題があると思います。
確かいじめをする人の脳って、そうじゃない人の脳とは成り立ちが違うはず。
何かでそう読んだ記憶があります。
ある意味、いじめをする人は先天的か後天的な障害を持っているとも言えるのではないか。
だから、そんな人に狙われたら逃げるしかありません。
声を上げて、聴いてくれる人がいるところまで逃げるべきです。
さすがに幼稚園より前の記憶はないので、どこで間違えたのか、はっきりとは特定できませんが、この分だと生まれてきたことが間違いだったように思えます。
思えますし、思っています。
なんで生まれてきたんだろう。
なんで生きているんだろう。
そんな風に。
厭世的になっているのではなく、病状かもしれませんが、治癒したとしても積極的に幸せになりたいとも思えない気がします。
幸せへのレールは、一回外れてしまった人の元には表れない確信があります。
そういった社会になっていると見ています。
といって、死ねないのだから生きるしかない。
人様の邪魔にならず、ささやかな穏やかさを求めて。
せめて苦痛が無く過ごしたい。
それが、自分のレールのない人生の歩き方になる予定です。
現状、そこまで行く道が険しくて、いつたどり着けるのか分かりませんが。