鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

軌跡~ある教員サークルの興亡~56

 

前方にちょっとした行列ができているので、何事かと先を見遣ると、そこには自由の女神像が鎮座しています。

テレビで見た時は、ニューヨークにある本物と比べるとちっちゃいな、と思ったものですが、お台場のそれも実物を見ると割と大きく、存在感があるように思えます。

行列は女神像の前で、記念写真をするためにできているものでした。

 

昔から写真に写る自分の顔が嫌いで、というか、そもそもの顔が嫌いで、撮影からは逃げてばかりいました。

だから今回も、本須賀さんと畑野さんのカップルを写真に収めるだけでやり過ごそうとしました。

が、畑野さんに、米野さんと並ぶように言われて写真に写ってしまいました。

 

 

なんで好きでもない、付き合ってもいない人と二人の写真が手元にあるのか。

滅多に開かないアルバムを偶々開く度に、そう思いました。

自由の女神像をバックに、万人向けの笑顔を見せる米野さんと、目の焦点が合わずに不気味な笑みを顔に張り付けている自分。

何年か前に、「いつか恋人が出来たら、この女はなに?」と訊かれるのだろうかと、無用の心配をし、別の写真をその上に重ねるようにしました。

そうしているうちにうつ病になり、さらにはスキゾイドだと判明すると、過去がどうでもよくなりました。

そのため、ほとんどの写真を捨てた中に、その一枚もあります。

今の自分には必要のない記録です。

 

米野さんは今もそれを持っているでしょうか。

彼氏でもない、友達でもない、ただサークルが一緒だっただけという縁の奇妙な男と二人で写る写真です。

捨ててくれていれば救われます。

他者の記憶や記録に残りたくありません。

極力存在感のない人間になりたい気がしますから。

 

スキゾイドのためか、自分は自己の世界の充足に比重を置いています。

むしろそれだけでいい。

満ち足りているとは言えないかもしれませんが、何かが欠けているとは感じません。

少なくとも自己の中にいる限りは。

だから、他者に対しても放っておいてもらいたいと願います。

邪魔をされたくない代わりに、邪魔をしたくもないと。

 

この社会では他者と隔絶した生を許されず、どうしても関わりが必要となってくる場面があります。

その際に、自分に足りないものの多くを気付かされます。

それは、寛容さであったり、ユーモアであったり、適切な知識であったり。

そういった物が欠けている人間である自分を、思い出してほしくないのです。

他者の中にあっては、そんな人間は邪魔でしかないから。

だから、他者の中の記憶や記録に残りたくない。

思い出すことで、彼らの現在の生活の邪魔を一秒でも邪魔したくないのです。