約束はいらない
人前で何か新しいことをしようとした時、大体いつも何かで失敗して来ました。
カウンターに資料を持っていく作業の場合は階段で派手につまずいたり、清掃の時はせっかく集めたごみを床にぶちまけてみたり、自己紹介の時は言うべきことを言い忘れたり、言い間違えたりして聴いている人たちの胸にハテナマークを浮かばせてみたりします。
その度に失笑され、我ながらコメディアンのようにお約束の笑いを引き起こすなぁ、と思っていました。
ですが、私はこれっぽっちも人を笑わせようとは意図していません。
十代、かろうじて二十代であればおっちょこちょい、うっかりさんで通るかもしれませんが、もうそれが許されない年代になっています。
だから何かを始める時は気を付けて、それまで以上に慎重に物事に対するようになりました。
それなのに、お約束の失敗は引き起こされます。
同時に、笑わせているのではなく、笑われているのだとも気付きました。
十年くらい遅まきながら。
しかも、場を明るくさせる楽しい笑いではなく、いい大人がその程度のことをまともに出来ないのかという嘲笑や、みっともなさへの憐みによる苦笑だとも理解しました。
どうしてそのように失敗し続けてきたのか。
答えは案外簡単で、上がってしまっているからでしょう。
緊張しているのです。
自分で思っているよりもずっと。
このくらいならば全力で注意を傾ける必要はないだろうと勝手に判断してしまっていたのかと思います。
十割の力が必要な作業を、七や八の力でこなそうとしていたのだから、し損なうのも当然なのです。
もう笑って、あるいは笑われて済ませられる状況ではありません。
事に当たっては常に全力でいなければ、それまでの慣性で超えられたことも出来なくなっているに違いないのです。
いつも力いっぱいというのは疲れそうだけれど、仕方ありません。
コメディアンじゃないので、もうお約束の失敗はいらないのだから。