鬱な現実~うつしぐさ~

うつ病者及びスキゾイド症者の語るしくじりだらけの人生

失われる音楽

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テレビやゲームといった刺激の強い娯楽を受け付けなくなった。

そこに楽しみがあるのはわかっていても、浸かってから出てきた時には、楽しんだことよりも、疲れの色の方が濃く表れてしまう。

 

かくもうつ病の心はままならない。

 

疎まれること、怒られること、恨まれること、そういった負の刺激には病前よりずっと弱くなっている。

そんなことで割れてしまうのかと、我ながら驚くほど華奢になってしまった。

 

とはいえ絶え間なく苛まれ続け、受容体の許容量を超えて麻痺してさえも降り重なった負の刺激が、うつ病発症の直接的な要因なので、そういったマイナスのダメージに過敏になるのは理解できた。

 

それがまさか同じ刺激とはいえ、心躍らせる正の動きにすら波及するとは考えもしなかった。

ましてや、その刺激の範囲が拡大するとも。

 

続いてダメになったのは、光だった。

とはいっても、日中の日の光が受け入れられないというのでなく、人工の光、つまりは電気が目につらく感じられるようになった。

目と、おそらくは脳と。

明るいところにいる、ただそれだけで疲れてしまうのだ。

テレビやゲームで、光の明滅がいけないのだと推測できるから、このことは仕方ないと割合すんなりと自分の中で整理させられた。

 

けれどこの頃になって、もっと症状は進んでいたよう。

自分でも知らぬうちに。

それというのも、歌が聴けなくなって来たからだった。

「あ、あの歌を聴こう」

そう思ってプレイヤーをセットしても、曲の半ばくらいで「もういいか」と消してしまうことが多くなっていた。

そして一週間くらい前、「歌を聴こう」と心に思った時に、ふと「本当に聴きたいのか」と、質問を継いでみると、その意欲が掻き消えてしまった。

歌を聴きたいと思わなくなっていた。

 

思えばテレビやゲームや光の時も同じだった。

それまで惰性や無意識に続けていたことを、意思を持ってやめた時に体が楽になった。

それと同じことが、今回の歌にも出始めたよう。

今は歌詞のある音楽、要は歌を苦手とするだけで済んでいるけれど、症状が進むとストリングスやピアノだけの曲も受け付けなるのかもしれない。

 

味気ない生に見える。

一方で、シンプルな生とも言える。

 

もし音楽が失われたとしたら、残るのは本とラジオとになる。

それらは今、どうしても失いたくないと思っている。

 

歌についてもそう思っていたはず。

強くではなかったかもしれないけれど、漠然と。

 

未来はわからない。

未だ来たらず、ありやなしや。